三宝三宝とは、「仏」・「法」・「僧」のことであり、それは釈尊によって確かめられた南無阿弥陀仏の法が、現実の世界に具体的にはたらく姿をあらわしたものです。「仏」とは、苦しみに悩む人間を救おうとする南無阿弥陀仏の法に目覚めた「人(釈尊・諸仏)」であり、南無阿弥陀仏は、ことばにまでなった「法」であります。また、「僧」とは、南無阿弥陀仏によって結ばれた人びとの「僧伽・あつまり」です。私たちにとって、この三つを依りどころとして生きること(帰依)こそが大切であるという意味で「三宝」といいます。 |
帰依この三宝に帰依することが仏弟子としての第一歩です。三宝への帰依はそのまま南無阿弥陀仏への帰依をあらわします。帰敬式においても、南無阿弥陀仏の教えを聞いて生きるものとなりますという自らの名告りとして「三帰依文」を唱和します。「帰依」には、私の生きていく依りどころと、生きる方向がさだまるという意味があります。仏・法・僧を三宝とする仏弟子は、自らの欲望を満足させるためにいろいろな神をたのんだり、日の善し悪しを占ったりしないということです。また、その必要がなくなるということです。帰依三宝の表明はそのまま私の信心の表明といえます。 |
剃刀 -おかみそり- 帰敬式には、髪をおろすことをかたどった「剃刀の儀」があります。帰敬式が「おかみそり」と云われ伝えられてきた由縁です。 |
伝統 親鸞聖人は、法然上人[仏]をとおして南無阿弥陀仏[法]の教えに出遇われ、その教えによって信心をともにする念仏の同行[僧伽]に加わっていかれました。 |
法名法名は、仏の教えによって「南無阿弥陀仏を本尊として私の人生を生きていきます」という名告りです。私のいのちの事実を私に教えてくれるものが南無阿弥陀仏という仏の智慧であることに気づき、この仏の智慧をたまわって現実を生きていきますという宣言が、法名を名告り、仏弟子として生活していくということです。そこには、共なるいのちを生きている、自分自身のいのちの尊さへの目覚めと、さらには、人として共に生きて在るということの発見ということがあります。ここに、生まれた意義と生きる喜びをこの身のすべてに受けとめて、私の人生を生ききる生活が開かれてくるのです。ですから生きている今、法名をたまわるのです。 |
法名を名告って生きる生活世間的な因習や常識に流されがちな日常にあって忘れてはならないことは、仏弟子としての名告りである法名をいただいた身であることの自覚です。法名をいただいた身の自覚から、朝夕の勤行を生活の基本とし、親鸞聖人の報恩講を勤め、お寺の法座にすすんで身を運び、別院や本山に参詣するという聞法生活がはじまるのでしょう。聞法の生活とは、南無阿弥陀仏の法がわが身にはたらき展開するということです。そのはたらきを受けとめるときに生活の規範と実践が生まれてきます。お寺やお内仏での仏法聴聞に限らず、食事の時は食前食後のことばを唱和し、生活のありとあらゆるところでお念仏をいただいていくことが大切な生活実践といえます。帰敬式を受け、本尊のまえに身をすえる中で、如来の本願の教えにわが身の姿が問われ、いのちの事実に目覚めていく、そこに法名を名告って生きる真宗門徒の生活があるのでしょう。 |