生のみが我らにあらず 死もまた我らなり 我らは生死を併有するものなり -清沢満之-
私たちは日ごろ、いま生きてあることにのみ私があり、人生があると考えています。しかしお釈迦さまは、人生の中には「生」もあり、同時に「死」もあるのだと教えられます。この「いのちの事実」に立って、自らの人生を受け止めて歩んでくださいとの、亡き人の願いを受けとる場として、いま葬儀に遇うご縁をいただきました。
亡き人が、親鸞聖人のお念仏の教えをよりどころに、如来のはたらきによって浄土に往生されていかれた事実を、残された者が確かめあい、亡き人の願いに向き合うことが、浄土真宗の葬儀に遇うということです。「死」の事実を、私たちひとりひとりが自分自身の課題として受けとめていくご縁とするのです。
ですから、浄土真宗の葬儀は、そのお勤めや荘厳、作法にいたるまでのすべてが、私自身を教え導くための儀式であって、決して亡き人を供養して、どこか遠い世界へ葬り送ってしまう儀式ではないのです。葬儀は、亡き人のいのちをほとけさまとして受けとめ、身近に出遇い直していく儀式であります。
私のいのちの背景には数えきることのできない無量の命が存在します。お父さん・お母さん、おじいちゃん・おばあちゃん、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん、ひいひいおじいちゃん・ひいひいおばあちゃん、と連綿に受け継がれてきたいのちが、それぞれ家族や親戚として、また友人や仲間としてつながりあっています。
私たちが合掌してお念仏を申すのは、決して亡き人のためではありません。亡き人を偲びつつ、私のところにまで流れてきたいのちの深さとひろさを想い、このいのちの流れを確かめていくためであります。
お念仏は亡き人のために唱える呪文ではなく、私がいただいていくいのちの教えです。親鸞聖人は正信偈に、お念仏のこころを「帰命無量寿如来」と教えてくださいます。「寿」は「いのち」です。はかりなきいのちの如来に帰依して生きるところに、再び遇いまみえる世界として「浄土」を表現してくださっているのです。
このたびのご命終は悲しいご縁ではありますが、このご縁を無駄にすることなく大切に受けとめ、私たちが浄土の教えを確かめつつ、今生に浄土を表現していくことが残された私たちの勤めです。そこから、亡き人が呼びかけてくださっている「つながりあういのち」に気付かされ、この悲しいご縁が転じられて、かけがえのないご縁であったと受けとめられるよう、お念仏の生活を大切に過ごしていきたいものです。
合掌
ご本尊が礼拝の対象です浄土真宗の仏事はすべてご本尊が中心となります。ですから葬儀の時もお内仏(仏壇)の扉は閉めません。ご自宅やお寺以外の式場でも、必ずご本尊をご安置します。ご本尊は「南無阿弥陀仏」ですが、絵像・木像であれば「阿弥陀如来立像」のお姿をご安置します。 |
お内仏(お仏壇)のお飾り四十九日間は上卓・前卓に白い打敷をかけます。この間、色花は挿し控え、蝋燭は白蝋を用います。 |
枕飾りご遺体は仏間にご安置し、枕許に燭台・香炉・花瓶を備え、それぞれ蝋燭を灯し、良質のお香を焚き、樒を挿します。線香や蝋燭はお参りのときに灯し、必ずしも灯し続ける必要はありません。灯やお香は、私を照らす如来の智慧と慈悲のこころをあらわしています。線香は立てず、香炉の大きさに応じて折り、火を点けて横にねかせて燃香します。 |
「日々是好日」葬儀は日を選びません「友引」に葬儀を避ける風習がありますが、仏教とは無縁のものです。お念仏に日の良し悪しはありません。 |
旅装束は身に着けませんお念仏の教えは、命終えられた方を浄土のほとけさまとして受けとめていく教えです。お浄土に還られたほとけさまに、三角巾・ワラジ・脚絆・六文銭や杖を持たせることはありません。納棺の際は木製の念珠をおかけします。 |
魔除けの刀はいりません浄土のほとけさまに祟りや恐れはありません。ですから、ご遺体の枕許や御棺の上に刃物は置きません。 |
御供物について枕団子・箸を立てた一膳飯・水はお供えしません。ご本尊には、平常どおりお仏飯をお供えします。 |
焼香について焼香の作法は宗派によってそれぞれですが、真宗大谷派では、まず焼香卓の前に進み、軽く頭礼して、お香を香炉に二度移します(このときお香を頭上にいただくことはしません)、お香の乱れを直して、念珠をかけて合掌し、お念仏申します。 |
私たちは清め塩を使いません「清め塩」は、死を「穢れ」として扱う行為です。生前に親しんでこられた方を、「穢れたもの」としてお清めするのは悲しい行いです。「清め」の行為は、浄土に往生された方を蔑むだけでなく、私自身の生き方をも曖昧にさせる迷信です。仏教は「死」を「穢れ」と受けとめることはありません。「死もまた我等なり」と受けとめて精一杯に生きていくことこそ仏道であり、人間が真に生きる道です。 |
法名について浄土真宗の法名は戒律を守る者としての戒名とは違い、お釋迦さまの弟子としての名のりです。宗祖である親鸞聖人が自らを「釋親鸞」と名のられて以来、真宗のご門徒は必ず「釋」の字を用いてきました。それはたとえ世間の名前や職業はさまざまでも、仏と法と僧伽の三宝の前にすべての人が等しく「釋」を名のり、平等に如来の慈悲を受ける世界をあらわしています。法名は仏弟子として生きるときの名ですから、帰敬式を受式して生前中に受けます。 |
冥福は祈らず「冥福」とは「冥土の幸福」です。「冥土」は霊魂思想による暗黒の世界、智慧の光に閉ざされた迷いの世界です。冥土の幸福を祈ることは亡き人を迷いの境地に貶めていく行為に他なりません。親鸞聖人は浄土を「無量光明土」と表現されます。「はかりない智慧の光の世界」です。遺された者の勤めは、冥福を祈ることではなく、この智慧の光に遇うことです。そして、この智慧の光に遇うはたらきのことを「ほとけさま」といただくのです。 |
亡き人は迷わず浄土のほとけさまに迷いはありません。ただ、残された私たちが周囲の声に迷わされることがあります。火葬場の行きと帰りで道を変えなければならないとか、四十九日が三ヶ月にまたがると良くないとか、私たちを迷わす習慣やしきたりが数多くあります。これらの迷信を断ち切って真実に生きることが浄土のほとけさまの願いでありましょう。 |